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日本における製図コースと図法幾何学の変容

 

福岡大学工学部 梶山 喜一郎

日本図学会1997年度大会(東京)学術講演論文集 1997年5月 pp99-106.


1 はじめに

 図法幾何学や製図は技術者にとって必要であると言われている。大学には図学や製図を教える教師がいる。なぜ大学で図学や製図が学問として教えられているのか。現在の大学の前身である旧制高等学校で、図画科がありそこの教授が図学や製図を教えていたのはなぜか。図学・製図教育が日本に導入されてわずか100年である。この間に図学・製図と教育の関係は歴史的事象となり忘れ去られ、その解釈に多くの混乱が生じている。現在、図学や製図の教育は明治・大正時代に比べると衰退の傾向にある。これに対して新たな図学や製図教育の改革が進んでいる。この歴史的事象を明らかにすることは、この改革を成功に導くために必要であろう。

2 西洋の技術教育と製図コース

2.1 18世紀、技術学校の成立と製図コースと図法幾何学

(1) 18世紀〜19世紀の大学と技術教育

 学校を卒業した技術者が活躍するのは、いつの時代からか。現在の社会では、大学を卒業した人々が産業技術を担っている。19世紀の産業革命を担った人々は、高等教育を受けた人々ではなかった。エジソン(Thomas A. Edison)やカーネギ(A. Carnegie)フォード(Henry Ford)がいる。彼らは技術学校や大学で学ばなかった。ヨーロッパとアメリカで、大学の工学部の卒業生が産業界で働くのは、1930年代になってからである。[1]18世紀、19世紀の大学では、科学教育、技術教育は行わなかった。橋を架ける、機械を造る事は、職人(クラフトマン)の知識であり、技術の問題は、職人が解決することであった。技術や工芸は知識人の関わることでなかった。技術は親方から、徒弟へ密かに伝承された。大学では、実用に関わる知識は学問の対象にしなかった。

(2) フランスの技術学校の成立

 技術教育が、フランスの学校で始まった。18世紀のフランスに市民革命が起こった。革命を原因として、フランスでは、国家の公共事業を指導する技術者・官僚がいなくなった。革命政府は、道路や橋の計画、要塞の計画が出来なくなった。政府はこれら公共事業を計画し指導する専門家を新しく養成しなければならなくなった。1794年、2つの学校、エコール・ノルマル(高等師範学校)とエコール・ポリテクニーク(高等工芸学校)が造られた。教員を再教育するための学校と、技術者・官僚を養成する学校である。
 エコール・ノルマルの教育の中心は、生産のための技術教育であった。モンジュ(Gaspard Monge,1746〜1818)は技術教育で理論と実際を結合することを意図した。教育の一部に技術教育科目があった。技術教育科目には、数学、図法幾何学、物理学、化学があった。モンジュは製図がデザインの中心になると考えていた。[2]1795年、エコール・ノルマルでのモンジュの講義録が「図法幾何学」として出版された。(当初、軍事機密であった図法幾何学は、この様にして公開された。)モンジュは、エコール・ポリテクニークに移った。かれはこの学校で技術教育システムを作り上げた。1797年、彼は校長になる。20世紀初頭にかけて、この学校は、技術教育だけでなく、多くの科学者を育て、ヨーロッパの科学の中心になった。

2.2 エコール・ポリテクニークの技術教育システム

(1) 技術学の教育体系

 エコール・ポリテクニークは、2年制で、公共事業を担う指導者・技術官僚を育成することを目的とした。卒業後、応用学校(Ecole dユ application des services publics)へ進む。応用学校は、軍事、土木、造船、機械、鉱山、地図の技術者を養成した。[3]この分野の技術者を教育するために、解析と設計を基礎に置いた。学生にそれまでの経験的な専門の技術の授業の他に、新たに理論と製図コースを学ばせた。技術者に自然現象を科学の理論で認識させることを学ばした。数学、力学、物理、化学、化学実験、鉱物学、そして図法幾何学を技術解析の基礎理論として教育に位置づけた。[4]またモンジュは、科学の理論と技術の実際(プラクティス)が結合するように技術教育を組み立てた。学校で講義だけでなく実験や実習を行うポリテクニークのカリキュラムは現在の工学部のモデルである。

(2) 製図コースの成立

 設計を図面を通して行うことは、現在では常識である。18世紀に、モンジュとポリテクニークは、デザインを図面で行うシステムを提案し技術教育に組み込んだ。18世紀の職人は図面を利用した。しかしこの図面はスケッチか実際の形を描いたものであった。彼等は三次元の物体をデザインするには、模型をつくるか、実際に材料を加工しなければならなかった。この伝統的なデザインは続き、19世紀半ばごろも、図面を使ったデザインはまれであった。これに対し、モンジュは、エコール・ポリテクニークで、生産を図面を通してデザインする技術教育のシステムを造りあげた。そのカリキュラムが製図コースである。図法幾何学は三次元の物体を二次元の図面に正確に表現する理論として教えられた。また二次元の図面で、物体を解析するための理論として教えられた。モンジュが教えた18世紀の図法幾何学の授業は現在と異なり、木材加工や石材加工の知識、機械学が含まれていた。ポリテクニークにとって製図コースは重要な科目であり、多くの時間が製図の実習に費やされていた。

2.3 技術学校の普及と技術教育システムの制度化

(1) 製図教育・図法幾何学科目の制度化

 最初、エコール・ポリテクニークの技術教育のシステムは各国の軍事学校に伝えられた。19世紀初め、この高等技術学校のシステムは世界に広まった。ヨーロッパ各国でポリテクニーク(高等工芸学校:仏polytechnique、英polytechnic)が設立された。当初、技術者を育成するこれらの学校は、大学の学問とは全く異なった知識を教える教育機関であった。20世紀になって、これらの技術学校は大学に昇格した。技術学は大学の学問と認められた。このようにして、モンジュの図法幾何学は、高等教育機関の科目に取り入れられていった。言い換えれば、彼の図法幾何学は、高等教育の科目として権威付けられていった。

(2) ヨーロッパ、アメリカの技術教育

 ドイツ政府は、高等・中等教育の技術学校を作った。1821年、エコール・ポリテクニークをモデルとしたベルリン実業学校(Gewerbe Akademie)を設立した。[5]オーストリアでは1811年、地方の領主がグラーツ工業学校(Technical schoolinGraz)を設立した。1842年より図法幾何学を教えた。1901年にこの学校は大学に昇格した。[6]
 1816年、フランスのエコール・ポリテクニークの教育がアメリカの軍事学校に伝えられた。クローゼ(C. Croze)はアメリカの陸軍士官学校の教官になった。彼はエコール・ポリテクニークで、モンジュに学んだ。彼はエコール・ポリテクニークの教科と教科書を採用した。1821年、彼は、英語で書いた最初の教科書として図法幾何学原論「Treatieson Descriptive Geometry」を書いた。[7、8]19世紀半ば、アメリカで技術学校がつくられた。産業の育成を目的として、1862年、モリル法(Morrill Act)が制定された。各州に技術学校が誕生した。これらは農業学校、工業学校と呼ばれた。工業学校では、図法幾何学が教えられた。これらは20世紀になると、州立大学に昇格した。
 イギリスでは、アメリカと同じく、高等技術学校(ポリテクニーク)は19世紀半ばまで作られなかった。産業革命が終わったころ、1828年ロンドンユニバーシティが、1836年ロンドンキングスカレッジが作られた。[9]

3 19世紀の製図教育と図法幾何学コース

 19世紀の半ばになると、製図コースと図法幾何学の関係はモンジュのころとは違ってきた。

3.1 19世紀のアメリカ・イギリス

 18世紀から19世紀にかけての産業革命は、ヨーロッパの職人制度・ギルドを破壊した。新しい機械は巧みな設計図を必要とした。またこの機械は精度の高い部品を必要とした。[10]徒弟制度により継承した技術では、成り立たなくなった。フランス、ドイツでは技術教育による産業革命への効果がでてきた。
 イギリスとアメリカの技術教育は、ヨーロッパと異なった。職人は労働者となった。労働者は、機械を造る工場で訓練を受けなければならなくなった。工場に徒弟制度を組み込んだ。工場で熟練工・クラフトマンを養成した。この様な中からエジソン(Thomas A. Edison)やカーネギ(A. Carnegie)フォード(Henry Ford)らが育った。彼等は企業家、技術者であり現在の設計者であり製図者・ドラフトマンである。製図は設計者や職人(クラフトマン)によって書かれていた。1880年にアメリカ機械工学会が設立した。1893年、アメリカ工業協会が設立した。この学会の会員はこの様な職人エリートであった。この時代の技術者(技師・エンジニア)は技術学校や大学を出た人ではなかった。

3.2 英国の製図コースとドラフトマン

 19世紀の半ばになると英国では、製図者が専門の職業となった。中等教育の技術学校で製図者養成のコースが作られていく。製図者は2つのタイプがいた。設計を行う技術者とトレーサ(写図工)である。製図者の多くは、トレーサであった。製図の学校では、図法幾何学の理論に基づく製図が教えられなかった。授業は当時の建築製図がモデルであり、図面の模写が授業の内容であった。その後工学的な製図教育が行われ、立体幾何学の科目や図法幾何学の科目が取り込まれていく。[11]アメリカ・イギリスの製図コースは、ヨーロッパと異なり、モンジュの図法幾何学が製図の理論でないカリキュラムがあった。

3.3 英国の高等教育機関での図法幾何学コース

 英国では19世紀の間、政府は技術教育を十分に支援しなかった。高等教育機関では、1900年までは、製図は設計のためでなく、微分積分学や解析幾何学で式を計算する[12]と同じような強力な計算機関として価値が認められた。モンジュの図法幾何学は理科の学生のためにカレッジの授業科目となっていた。[13]

3.4 アメリカの製図コースと三角法

 19世紀後半、各州で技術学校が設立された。当時のアメリカは、職人エリートが産業革命を支えていた。教師の中には、ポリテクニークと異なった、技術教育の考え方を持つものがいた。技術学校は、工場に代わって熟練工を養成するという考え方である。工場で教育された職人は、図法幾何学にもとずく製図を知らなかった。彼らは、まだ模型を通して機械を造っていた。技術学校出の製図者の図面は、工場で役に立たなかった。1880年、一角法と三角法の図面を表現する書式についての論争が生じた。生産現場の職人たちには図面を三角法で表現した方がよいという主張である。[14]ヨーロッパ大陸では、製図者は製図教育を受けていた。図面は一角法で書くことが標準であった。アメリカでは図法幾何学に基づかない製図教育が始まった。

4 日本の製図コースと図法幾何学コースの歴史

 明治政府は製図コースを教育制度の中に位置づけた。そしてこれは1990年代まで続いた。

4.1 日本の教育機関と技術教育の歴史[15]

(1) 最初の高等技術学校の設立

 1877(明治10)年、政府は高等教育機関の大学(東京大学)と技術学校を設立した。技術学校の名前は工部大学校(Imperial College of Engineering)である。工部大学校は、技術官僚を養成することを目的として設立した6年制の学校であった。この学校は、スイスのポリテクニ−クをモデルとした。東京大学の理学部の中に技術教育を目的とした4年制の工学科があった。[16]この2つの教育機関の中に製図コースは設けられた。
 1886(明治19)年、政府は日本の高等・中等・初等の教育制度を定めた。工部大学校は東京大学の工学部となる。このとき政府は世界に先駆けて、高等技術学校を大学として認めた。日本では技術に関する知識が早い時期から学問として理解された。20世紀になってから、東京大学以外の高等技術学校は、政府により大学として認められていく。

(2) 旧制高等学校の成立

 1886(明治19)年、政府は中等教育機関を定めた。2種類の中学校、尋常中学校と政府の高等中学校を設けた。中学校は専門教育と高等教育の準備教育の2つの目的を持った。この時、東京大学は予備門を大学から分離し、これを官立(政府)の高等中学校とした。東京大学の製図コースは高等中学校の教育科目となった。そして次の旧制高等学校の図画科の製図コースに引き継がれた。1894(明治27)年、高等教育機関として官立の旧制高等学校が設けられた。5つの官立高等中学校が旧制高等学校になった。教育の目的の1つは、帝国大学に進学するための知識を学習するところ。他は、専門家を教育する高等技術教育機関であった。法科、医科、工科の学科が設けられた。
 しかし、明治の後期以後、専門の教育は行われなくなり、帝国大学に進学するための高等教育機関に変化した。1918(大正7)年の高等学校令で、公立(地方政府立・都道府県立)、私立(財団法人立)の高等学校を認めた。教育期間は7年間であった。1946年には、32校あった。この旧制高等学校の制度は、1947(昭和22)年まで続く。

(3) 旧制中学校の成立

 1899(明治32)年、中学校令を改正し尋常中学校の名称を中学校とした。政府は専門教育を排し、中学校で5年制の普通教育を行うことにした。

(4) 中等・高等の技術学校(職業学校)

 1899(明治32)年、政府は実業学校令により中等教育の技術教育機関を整備した。工業学校、農業学校、商船学校、水産学校があった。1902(明治35)年、実業学校令により高等教育機関の実業専門学校が整備される。高等商業学校など。1903(明治36)年、専門学校令によりそれまであった官立、公立、私立の高等教育を担う技術教育機関を、専門学校として認可する制度をつくった。その後1943(昭和18)年、専門学校令の改正を行い、実業専門学校と高等専門学校を統一した。

(5) 旧制大学制度の定着

 1918(大正7)年、政府は大学令を公布し、官立以外の高等教育機関を大学として認めた。公立(地方政府立・都道府県立)、私立(財団法人立)の専門教育機関が正規の大学に昇格した。1919(大正8)年、帝国大学令がだされる。これ以後を、旧制大学と呼び、1947(昭和22)年の新制大学まで続く。1946年の大学の学校数は48校。官立18校、公立3校、私立27校であった。

(6) 新しい学校制度

 1947年、政府は旧制度を廃して教育基本法・学校教育法を定めた。初等教育の小学校は1年年から6年まで。中等前期教育の中学校は、7年生から9年生。中等後期教育の新制高等学校は、10年生から12年生。高等教育の大学は13年生から16年生とした。旧制高等学校は大学の教養部となった。東大だけは教養学部となる。この中に再度図画科は図学教室として製図コース(現在の図学科目と製図科目)の授業を持つことになった。1987年の大学は474校、うちわけは国立(官立)95校、公立(地方政府)37校、私立342校であった。1990年代になると、国立大学の教養部の制度が変わり、図学と製図の授業は政府の保障するところとはならなくなった。

4.2 日本の製図コースと図法幾何学の歴史

(1) 図学教室の教育モデル

 現在の図学・製図科目の教育は、1949年設立した新制大学の図学教室の教師が教えた図学と製図がモデルであった。新制大学の図学教室の教育モデルは、旧制高等学校の図画科をモデルとしたといえる。日本での図法幾何学の近代的教育は、明治時代、東京大学及び工部大学校に導入された。東京大学で図学を教えた小島憲之は、旧制高等学校の教授となり、ここで図学を教えた。また東京大学や工部大学校で学んだものが旧制高等学校の図画科の教授となった。東京大学及び工部大学校の教育が、旧制高等学校で教えた図法幾何学教育のモデルと考えられる。[17]日本の図法幾何学教育のモデルは、明治期以来ずっと変化しなかったのか。

(2) 科目の名称

 1858(安政5)年の授業の記録がある。Descriptive Geometryの翻訳として、書記度学の用語が使われた。Drawingの翻訳として図学の用語が使われた。[18]画学の用語が、1864年に使われた。江戸の政府は、画学は西洋の学問の一つであり、造船学や兵学と同列の学問と位置づけていた。[19]画学は西欧の線画、版画や写実的な絵画の体系を指していた。しかしこれは現在の美術を意味しない。
 1874(明治7)年の工部大学校のカリキュラムがある。図画が科目の名称である。1877(明治10)年のカリキュラムでは、図学が科目の名称である。1885(明治15)年の科目の名称は、図学である。その内容は初歩自在画(フリーハンド・ドローイング)、幾何平面図(プラクティカル・プレーン・ジオメトリ)、幾何立体図(プラクティカル・ソリッド・ジオメトリ)、配景法(パースペクティブ)である。工業製図や建築製図の基礎としてこれらを教えた。[20]
 1876(明治9)年の東京開成学校のカリキュラムがある。画学が科目の名称である。その内容は自在画と用器画に分かれていた。自在画では、静物画、人物画、風景画の写生が行われた。用器画では、製図器具を使った幾何学図形の作図や投影法を学習した。その後学生は、透視図や機械製図を学習した。専門科に進むと、工学科では、さらに図画推算学(graphic calculation)、機器図、設計製図と積算の実習を学んだ。物理学科では、数学及び罫画の科目で図法幾何学を学んだ。[21]
 1877(明治10)年の東京大学のカリキュラムがある。理学部の工学系の学科では製図コースが造られた。1学年では画学(図法幾何学)、2年そして3年では機械図(機械製図)の科目が教えられた。[22]
 1886(明治19)年、明治政府は小学校を義務教育にした。初等教育の職業教育を重視した政府は、図画を罫画の名称で教えた。明治期の図画の用語は、現在の美術や芸術教育を意味するものではない。[23]図画は、西欧から輸入した概念を説明する用語として使われた。図画は科学的な、そして技術的な図や絵を意味していた。図画はdrawingの訳語に用いられることもあった。この時代のdrawingの用語は、技術的、科学的な線画や絵画の総称を意味していた。工業製図や、用器画、動植物画、解剖画などスケッチやペイントを含むものである。

(3) 教科書の名称

 軍学校で図学の名称が教科書に使われた。その後、教科書の名称は、高等教育で「図学」が使われるようになった。[24、25]中等教育では「用器画」が使われた。東京大学では、当初、外国語の教科書で授業を進めていた。使われた教科書に、A. E. Churchの「Element of Descriptive Geometry」(1868)がある。モンジュの流れをくむ図法幾何学のテキストを使用していたことが分かる。多賀章人は「図法一斑」を書いた。工部美術学校を退学した、西敬は「学校用用器画法」(1882)を書いた。平瀬作五郎は「用器画法解説」と「用器画法図式」(1882)を書いた。工部美術学校を出た、竹下富次郎は「中等教育用器画法」(1894)を書いた。工部大学校を卒業した、飯島基次郎と寺野精一が「図学教科書解説」と「図学教科書図式」(1897・明治30)を書いた。当時はテキストと図版は別々に製本された。軍学校で、教科書を出版した。陸軍は、「写景法範」、「東京近傍写景法範」(1874)、「西洋画式」(1876)を出版した。神保訳の「算学講本」(1876)、井上荘輔の「図学教程」(1882)、石丸三七郎は「泰西絵原写景法」(1885)を書いた。写景とは透視図のことである。井上荘輔は、「図学階梯」(1886)を書いた。海軍では「画法幾何」(1900)の教科書を出版した。[26]久保田圭右は「高等立体図学」(1908)を書いた。[27、28]

(4) DrawingとDescriptive Geometryの翻訳

 現在、図法幾何学を内容とする科目の日本語名称は、図学である。工業製図の科目名は製図である。図学の名称は江戸後期以後、様々な変遷があった。DrawingとDescriptive Geometryの用語の定義に歴史的な混乱があった。これは、現在の教師が、製図コースと図学コースの性格を理解することをさらに困難にさせた。日本に図法幾何学と製図が導入されたとき、ポリテクニークにならって、製図コースを構成するものと理解された。最初、図学の用語は画学とともに図法幾何学だけでなく製図全般を意味する用語として使われていた。この様な変化の中で、図学は図法幾何学の略称であるという迷信が造られたのではないか。

4.3 初等・中等・高等教育の一貫した製図コース

 政府は、大学の他に、高等教育の専門学校を計画した。旧制の高等学校である。高等学校は、帝国大学の予科と高等技術学校の性格をもった学校である。医科・工科が高等学校に造られた。図画科の教授も配置された。当初、図画科は専門の技術学校の製図コースとして計画されたと推測できる。小学校では図画科目の名称で自在画が教えられた。1899(明治32)年、政府は中学校を整備した。中学校では用器画が教えられた。この時期、学校の各段階で、体系的に図画コースが教えられた。日本の技術教育の中で、西欧の技術と学問である製図コースが完成した。ただしこの時期の製図コース教育は、自在画、用器画、幾何学、図法幾何学、産業のための図面を内容としており、現在の細分化した工業製図科目とは異なっていた。製図コース(あるいは図画コース)は立体の図表現と図形による解析を含む系統的な教育であった。現在の教師で、普段、静物画や風景画の実習が製図のさらなる基礎教育であると考える人がいるであろうか。同様なことは、現在の製図教育と図法幾何学の関係についても言えるであろう。明治政府は、工業時代の教育として、精度を考えた図形、精度を考えた図面が常識である技術者を育成するためにこのような緻密な製図コースの計画をたてたと推測できる。しかし製図や図法幾何学を教える教育者達や、この分野の研究者達に、製図コースを学問の体系としてまとめあげる能力を持った組織や人はいなかった。

4.4 旧制高等学校の図画科の変化

 1903(明治36)年、政府は旧制高等学校の専門科を、高等教育の専門学校として分離した。その後、旧制高等学校は帝国大学の入試を準備する学校になる。この時、図画科は高等学校に残った。高等学校の授業は職業教育を排した。この時期より図画科の授業の内容が変化していくと考える。工学部や高等技術学校に属しない、技術教育から離れたところにいた図画科の教師は、製図コースの持つ技術教育との関わりを見失っていったと考えられる。1989(明治22)年の高等学校の図画の授業時間(週)は、1年生2時間、2年生3時間、3年生10時間であった。1919(大正8)年になると、1年生2時間、2年生2時間、3年生2時間になった。[29]図画科の製図の実習の部分は減らされた。しかしそれでも後で述べるように3年間にわたるの図画科の授業時間の半分以上は製図の実習にあてられていた。更に図画は、大学や高等専門学校や高等学校の入試の科目となっていた。図画は、政府に保障された学問となった。
 このころから、図画科の授業は、リベラルア・アーツの装いを強めたと考える。図法幾何学の持つ、数学的、計算的側面が強調されていく。そのために本来技術的な科目である図画科が、その目的に論理的な思考や空間の想像力を強調するようになったのはこれらの図画科とその教師の変化があったと考える。
 また高等教育の教師の持つ製図や製図者についての特別な見方があったのではないか。歴史的に、製図コースは、ポリテクニークで設計や生産管理の指導者を育てるための技術教育として開発された。20世紀になると、日本でも製図が職業となった。製図工は高等教育を受けた人々ではなかった。製図工の教育と高等教育の製図教育を混同するような、製図コースの意義の理解の混乱があったことが推測される。そのため形を作り出すデザインのための製図実習が、摸写中心の実習に慣習化され、これを改革する教師も出現しなかった。それでも、図画科の授業時間は政府に保障され、新制の大学に引き継がれた。

4.5 図画科教師の育成

 図画科の教師は専門的に教育されなかった。東京大学、工部大学校、工部美術学校、軍学校の製図コースは、外国人教師により授業が行われた。その後、製図コースの日本人教師が育った。製図コースの教師は、製図コースの専門の学校を出なかった。彼らは外人教師の諸種として製図コースを学んだもの、外国に留学したが、製図コースを専攻したものではなかった。高等中学、後の高等学校の図画科の教授は、工部大学校の造家(建築)科や造船科を卒業した人がなった。[30]東京大学で教えていた、小島憲之も旧制高等学校の図画科の教授になる。
 政府は製図コースに多くの授業時間を配分した。しかし教師は、デザインのための製図教育に使わず、その後ずっと図面の模写にそれを費やしてきた。[31]図画科の教師は、図画科に赴任してから、初めて専門の学問や教育技術の指導を受けることになる。高等学校の図画科の水準により造られる教員の資質が変化しやすくなる。1923年全国図画教官会議が開かれた。ここでの議題はProjectonの訳の統一であった。[32]製図コースの専門的な教育を受けた教師はいなく、製図コースの学問の研究者が育たなかったと言われている。[33]

4.6 図法幾何学と製図の授業

 昭和10年ごろの製図コースが具体的にどの様なものか理解するための報告がある。[34]要約すると、
 私は昭和の前半、学校時代どうだったかということを紹介する。小学校では図画というものがあった。あの頃は工作は無く図画ばかりであった。1、2年頃はクレヨン、クレパスは4、5年の頃、最後は絵具で描いた。旧制の中学1年の時は小学校と同じ図画、2、3年で定規とコンパスを用いる用器画があり、4、5年では無かったと思う。
 旧制高等学校で図学を習った。授業時間は1コマ50分、休憩が10分、合計1時間というのが単位になる。また、理科と文科に分かれ、さらにそれぞれ甲類、乙類に分かれた。理科の甲類は3組あり、1、2組が非生物系、3組が生物系であった。教科書は福田正雄著「高等図学:昭和3年初版」であった.緒言に「本書ハ高等學校高等科圖畫(図画)科教授要目ニ準據シ」と書いてある。この当時、図学は圖畫科の中に入っていたことから、小学校、中学校の図画を先に紹介した。緒言の三行目あたりに「高等学校ノ圖畫授業時數ハ三學年ノ通計約百八十時間デアルガ、ソノ中約三十時間ヲ自在畫ニ割キ」と書かれている。自在畫というのは「他ノ時間ノ半以上を製圖實習ニ宛テネバナラナイカラ、殘余ノ六十時間内外ニ圖學全般ニ亘ル正確ナ知識ヲ授ケルニハ適當ナ教科書ヲ用ヒルカ・・・」。
 この緒言の時間数に応じ、1年の時に自在画(図画)、木炭画と水彩画を週1コマ通年30時間と図学が週2コマで通年60時間。2年は図学だけ週1コマ通年30時間習った。3年も図学だけで週1コマ通年30時間習った。これで、図学の授業が150時間になる。理科の甲類1,2組は非生物系なので3年まで図学があり、3組と乙類は2年までで終わりだったと思う。緒言によれば150時間中講義だけが60時間で、残りは実習ということになる。実際に60時間講義だったかは憶えていないが、講義を少しした後、1〜2週間実習の繰り返しだったという記憶がある。実習はトレース用紙に写すのではなく、画用紙に鉛筆の線の上から直接烏口で墨入れする方法だった。
 新制大学になり教養部は最初は2年間であった。このとき、図学は週1コマ2時間、110分の授業で10分休憩で正味2時間、製図は週1.5コマ3時間行った。総時間数は150時間で先ほどの旧制高等学校の場合とほぼ同じである。

5 まとめ −20世紀の製図コースの変化−
 エコール・ポリテクニークをモデルとした日本の製図コースは、政府に保障され、高等教育機関の学問として伝え続けられてきた。20世紀になると高等技術学校は、大学に昇格した。大学は技術者を養成するところとなった。技術の研究も学問の対象となった。しかし製図コースと大学の蜜月も20世紀後半になると薄らいできた。1990年代になると、政府は大学の製図コースを制度的に保障をしなくなった。まとめにかえて、以下に20世紀後半に生じた問題を整理した。

(1) 大学の学問としての図法幾何学の変化

 第二次大戦後の技術の発展を受け、オーストリアの工業大学では新たな専門分野の科目が加わった。そのため基礎科目の時間数が減ったり、基礎科目が除かれた。画法幾何学は科目縮小の対象になった。彼らは、技術者は投影的な図形より、計量的な図形を扱うべきで有ると主張した。彼ら、ウィーン学派は、構成幾何学をつくり、図法幾何学の教育を継続した。[35]日本にもこの学問は紹介されたが伝統的な図法幾何学に変わる教育科目にはならなかった。学問の発展を要求される大学において、日本の図法幾何学は大学内で地位をとどめることが困難になってきた。

(2) 日本の図学会と図形科学ハンドブック

 製図コースは、新制大学では工業製図と図法幾何学として教えられていった。この中の教育者・研究者の中からこれらを図形科学( Graphics Science)として再度体系化しようとする運動が始まった。1967年に始まる日本図学会の組織でこれが行われている。彼らは1980年に図形科学ハンドブック[36]を出版した。このエンサイクロペデイアは、図形科学の対象として、図の科学史・技術史、図形の心理学、計算機による図形処理、視覚デザイン、印刷技術、写真、デジタルによる図形伝送などを22章の内9章にあてた。

(3) 大学と製図コースの変化

 アメリカの技術学校は、20世紀になり、大学の仲間になった。大学になった工学部は、当初、専門分野の技術者を育成することが目的であった。この目的は変化しつつある。第二次大戦後、アメリカ政府は、技術者の育成に代わり、科学者を育成することを目的とした。工学系の大学は、技術者育成の目的を変えた。大学の設計教育を中心としたカリキュラムを変えた。教師は、研究はできるが、技術の実践や、設計を知らない教師が増えてきた。また実際の産業での経験のある教師が減ってきた。工学系の大学は、学生に工学の知識を教えるのが目的になった。その知識は、微分積分の数学を使った解析の知識である。この様に、大学に昇格した高等技術学校では、設計や生産を教える代わりに解析を教えるようになった。設計や生産の知識や技術は高等教育に相応しくないとの考えが広まっていった。専門分野の技術者の育成は、大学より格の低い技術学校で教えればよいとの考えも出てきた。その結果、大学から、製図コースや機械やプラントの実習が無くなってきた。[37]この動向は日本の大学教育に影響を与えた。一方で、専門の技術者育成と製図コースの関係が再度見直され始めいてる。

(4) 日本の初等・中等・高等教育での製図コース体系の変化

 初等・中等教育の製図コースの教育の上に、高等教育である大学の製図コースは成り立っている。20世紀初頭には、日本の初頭・中等教育で製図コースが体系的に行なわれていた。20世紀の後半、この段階的な教育体系が縮小されてきた。大学をふくめ、日本の製図コース(工業製図だけでなく、図形や図面の科学と技術)をどの教育機関で担うかが問題となっている。
 小学校、中学校の図形教育は、算数・数学教育の一領域として位置付けられている。親学問である数学が、学習指導要領の改訂やカリキュラムの構成時に大きな影響を及ぼす。そのような流れの中で製図に関わるような図形教育は、昔に比べかなり縮小された。作図は、図形を理解するための一つの活動としてとらえられている。作図練習は教科書でも省かれており、技能的な面の指導や複雑な図形についての作図はやらない。[38]
 中等教育前期の中学校で製図が教えられている。「技術・家庭科」は、1958年の中学校学習指導要領が改訂された際、一般普通教育の教科として新設された。歴史的にはそれ以前の「職業・家庭科」の流れを汲み、その技術的な内容と、図画工作科の工作的な部分及び農業の一部を吸収して構成された。この中で製図は教えられる。学習指導要領の改訂の度に「製図」に関する教育が軽視された。当初55時間をかけた製図分野の授業が、1977年の教科書からは製図の独立した領域がなくなった。[39]

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参考文献

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4.三枝博音、技術の哲学、岩波全書、1951、95-98.
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12.小高司郎、画法幾何学の演習、森北出版株式会社、1966、1.
13.ブッカー、製図の歴史、原正敏訳、みすず書房、1967、161.
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19.原正敏、幕末および明治初期における図学教育の導入について、科学史研究 115、1975、105.
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