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日本における製図学の科目の変容

 

梶山 喜一郎   福岡大学工学部

図学研究 Vol.32 No.1 1998年3月 pp3-8.


The History of Drawing Course in Japan

Kiichiro KAJIYAMA

In 1794, technical education began at Ecole polytechnic in France. Monge and the polytechnic proposed the production systems that performed a design by a drawing. The curriculum of the new design system was the drawing course. The technical knowledge was recognized as knowledge of a university afterwards.

At the 19th century middle, the Japanese government introduced the technical education. The drawing course of the Meiji era included technology and science of the drawing. Details of the drawing course changed afterwards. The teacher limited contents of the drawing technology of a school to copying of a blueprint. The teacher limited contents of science of the drawing to the descriptive geometry at school. The drawing course changed to narrow-minded knowledge. The drawing course meant a subject of practical training of drawing and the descriptive geometry.

In 1947, the drawing course was taken over to a university. The university divided knowledge of the drawing course. The practical training and the descriptive geometry were promoted to an independent subject. On the other hand, the university lost knowledge of the drawing that include both technology and science. We forgot that the current drawing subject and the current descriptive geometry subject were part of the drawing course historically.


目    次

1. はじめに

2. 欧米の技術教育制度と製図学の科目
 2.1 大学と技術教育
 2.2 技術学校の成立
 2.3 エコール・ポリテクニークの技術教育
 2.4 製図学とその教育科目の成立
 2.5 技術教育制度の普及

3. 日本の技術教育制度と製図学の科目
 3.1 工部大学校と工学部の設立
 3.2 旧制高等学校制度
 3.3 初等・中等・高等教育の製図学教育
 3.4 大学工学部制度

4. 日本の製図学の科目と細目の変化
 4.1 導入期の製図学の科目
   (1)工部大学校
   (2)東京開成学校
   (3)東京大学
 4.2 製図学からエンジニアリンググラフィックスの教育への変化
 4.3 日本の「製図、図学」の用語の変化

5. 旧制高等学校における製図学の科目の変容
 5.1 図画科目の時間数
 5.2 学校での製図学実習
 5.3 科学としての図法幾何学

6. まとめ

参考文献


1. はじめに

 製図は技術者にとって必要であるといわれ、製図の知識である製図学は学問として教えられてきた。大学の教養課程あるいは基礎教育科目に製図科目と図学科目がある。この二つの科目は、フランスのエコール・ポリテクニークで成立した製図学とその教育までさかのぼることができる。明治期、日本は製図学の教育を近代的な高等教育機関の科目として導入した。その後、製図学の科目は旧制高等学校の図学教室、そして新制大学の図学教室に引き継がれた。

 現在、学校での製図学の教育は明治時代にくらべると衰退の傾向にある。高等機関では、他の増加する科目により教育時間が減少した。また高等機関の製図学教育を支えていた、初等・中等教育の組織だった製図学の教育が衰退した。これらの状況に対して教育研究の改革が進められている。製図学の教育は製図学の変化に応じて再構成されねばならないであろう。しかし、製図学の一部や、製図学教育の一部を強調した教育観にもとづいて現状を分析したり、将来を想像することは改革を困難にさせる。現在教えている製図科目と図学科目やその両者の関係について、つぎのいくつかの観念が流布されている。

 製図学教育と図学教育はたがいに独立したものである。学校の製図は実用的、実務的でなければならない。規格にもとづいた図面をかく練習が製図学教育である。図学は図法幾何学を略したものである。
 日本に導入し継承してきた製図学の科目に対する教育観がどのように変化したかを考察することは、改革を成功に導くために有効であると考える。


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2. 欧米の技術教育制度と製図学の科目

2.1 大学と技術教育

 欧米で、大学の工学部の卒業生が産業界で活躍[1]するのは1930年代になってからである。19世紀の産業革命を担ったT.A.エジソンとH.フォード、彼ら技術者は大学で学ばなかった。
 18世紀、19世紀の大学は、現在と異なり科学教育や技術教育をおこなわなかった。大学は、実用にかかわる知識を学問の対象にしなかった。橋をかける、機械をつくる知識は、職人の知識であり、職人が技術の問題を解決した。職人社会の中で親方から徒弟へひそかに技術を伝承した。

2.2 技術学校の成立

 18世紀のフランスで、技術教育を制度化した。市民革命を原因として、フランスでは、国家の事業を指導する技術者・官僚がいなくなり、道路や橋、要塞の計画や工事ができなくなった。革命政府はこれら事業を計画し指導する専門家を新しく養成しなければならなくなった。1794年、エコール・ノルマルとエコール・ポリテクニークの2つの学校を設立した。教員を再教育するための学校と、技術者を養成する学校である。
 教員養成のエコール・ノルマルは、生産のための技術教育もおこなった。教師をとうして技術の知識を国内に広めることをもくろんだ。ノルマルでは、数学、図法幾何学とその応用、物理学、化学を技術教育の科目として教えた。

 モンジュが考えた技術教育[2,3]は、第一に計測法にもとづく精度の概念を産業社会に普及させることであった。当時国内では度量衡は混乱し、メートル法による計測が提案された。彼はこの計測法にもとづく精密な製品の生産をめざした。教育機関をとうして、製作する者、製品を利用する者に対して精度の概念を広めることを計画した。第二に現在では当然のことであるが、産業に自然科学の知識を用いることであった。第三に、これも現在では当然のことであるが、学校で技術の知識を教えることであった。そして図面は対象を精度を持って正確に表すものとして考えた。また図面はこれをとうして対象の正確な形状と位置を解析できるものと考えた。

 1795年、モンジュはノルマルでの図法幾何学の講義録を出版した。この年モンジュは、エコール・ポリテクニークに移り、1797年に校長になる。彼はこの学校で技術教育のシステムをつくりあげた。

2.3 エコール・ポリテクニークの技術教育

 エコール・ポリテクニーク[4]は、当初2年制で、公共事業を担う技術官僚を育成することを目的とした。彼ら指導的な技術者を育て技術の知識をフランスの産業に広めることを計画した。卒業後、応用学校へ進む。応用学校は、軍事、土木、造船、機械、鉱山、地図の産業の部門別に技術者を養成した。それまでの経験的な専門の技術の知識の授業のほかに、学生に新たに技術解析の基礎理論を学ばせた。いいかえれば、現象を理論で認識する技術者を育てようとした。数学、力学、物理、化学、化学実験、鉱物学、そして図法幾何学の知識を技術教育に位置づけた。またこの学校は、これらの解析の理論と技術が結合するように講義だけでなく実験や実習を授業として組み立てた。

2.4 製図学とその教育科目の成立

 エコール・ポリテクニークは、図面を介して生産をおこなうシステムを提案し技術教育の中に位置づけた。現在、デザインを図面をとうしておこない、図面でものを生産することは一般的である。モンジュの時代の職人も図面を利用した。しかし当時の図面はスケッチか実際の形を描いたものであった。職人たちは三次元の物体をデザインするために、模型をつくるか、実際に材料を加工しなければならなかった。

 モンジュとエコール・ポリテクニークでの、図面によるデザイン教育が製図学の科目である。産業部門別の技術の基礎分野に、デザインを精密な図面をとうして表現する、あるいは図面をとうしてデザインを理解する製図学の知識を教えた。製図学の知識には、技術を支える図法幾何学の解析理論の知識もふくんだ。そして図面を作成できることが、職人とは異なる技術者の基礎であると考えるようになった。

2.5 技術教育制度の普及

 19世紀になると、フランスのエコール・ポリテクニークの学校制度は世界に広まり、欧米の各国はポリテクニークを設立した[5~7]。職人にかわる技術者を育成する学校は、当時の大学の学問と全く異なった知識(工学あるいは技術学)を教える教育機関であった。

 20世紀になって、ポリテクニークは昇格して大学になる。技術の知識は、次第に大学の学問としてあるいは教育内容として認められいく。

 日本の技術教育の制度もこの歴史の動きに沿って成立した。1877(明治10)年、日本政府は西欧の生産技術を修得するため、スイスのポリテクニ−クをモデル[8]とした6年制の工部大学校(Imperial College of Engineering)を設立した。


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3. 日本の技術教育制度と製図学の科目

3.1 工部大学校と工学部の設立

 1877年、政府は近代的教育機関として東京大学と工部大学校を設立した。この2つの教育機関の中に製図学の科目を設けた。

 1886(明治19)年になると、政府は日本の高等・中等・初等の教育制度を定める。この時、政府は世界に先駆けて技術学校(College of Engineering)を大学として認めた。工部大学校は東京大学の工学部となる。

 外国人教師により始まった東京大学理学部[9]および工部大学校での製図学の教育は、卒業生により広められる。旧制高等学校が設けられると、この卒業生[10]が図画科の教師となり製図学の教育を担当した。

3.2 旧制高等学校制度

 1886年、政府は中等教育機関を定め、尋常中学校と政府の高等中学校を設けた。東京大学は予備門を大学から分離し、これを官立の高等中学校とした。東京大学の製図学の教育は高等中学校の科目として引き継がれる。

 1894(明治27)年、高等教育機関として官立の高等学校を設けた。5つの官立高等中学校が高等学校になった。この時期の高等学校は2つの教育目的を持っていた。高等学校は帝国大学に進学するための学校であり、一方で専門家を育成することを目的とした学校であった。専門教育の高等機関である法科、医科、工科の専門学科を高等学校の中に設けた。高等学校に技術教育の科目である図画科目を設け、高等中学の製図学を引き継いだ。

 1903(明治36)年、政府は高等学校にある専門学科を、専門学校として分離した。高等学校は帝国大学への進学を準備するための学校になる。技術教育の図画科目は高等学校の教育科目として残った。

 当時の大学工学部に進学する高等科理系の学生の履修科目[11]は、修身、国語および漢文、第一外国語、第二外国語、心理、法制および経済、数学、物理、化学、植物および動物、鉱物および地質、図画、体操である。このように旧制の高等学校は制度の変化後も、製図学の図画科目を大学工学部の基礎課程として教えた。

3.3 初等・中等・高等教育の製図学教育

 小学校の義務教育が1886年の小学校令により始まる。初等教育での職業教育を重視した政府は、図画を罫画の名称で教えた。政府は、1899(明治32)年、中学校を整備する。この中学校で用器画を教えた。この時期になると、初等・中等・高等の教育機関をとうして、組織的に製図学の教育をおこなった。1935(昭和10)年ごろの教育についての報告[12]がある。

 小学校で図画を学んだ。小学1、2年生のころクレヨンで描き、パステルは4、5年生のころ、最後は絵の具で描いた。旧制の中学1年で小学校と同じ図画を、2、3年で定規とコンパスを用いる用器画があり、4、5年は無かった。

 旧制高等学校の高等科で図画科目を習った。1年の時に自在画と木炭画および水彩画を週1コマ通年で30時間習った。図学は週2コマで通年60時間習った。2年では、図学だけ週1コマ通年30時間習った。3年も図学だけで週1コマ通年30時間習った。講義を少しした後、1〜2週間実習を繰り返した。

3.4 大学工学部制度

 公立、私立の専門教育機関は、1918(大正7)年の大学令により大学に昇格していった。そして1919(大正8)年の帝国大学令により旧制の大学制度が成立していく。東京大学についで京都大学で、付属する工科大学(College of Engineering)が大学工学部に昇格した。

 1947(昭和22)年、政府はそれまでの教育制度を廃して新しい教育法を定めた。高等教育機関である大学は13年生から16年生と定めた。旧制の大学、高等学校、高等専門学校を統合し各地に総合大学を設立していった。そこに新設した工学部が高等技術教育を担っていくことになる。

 新制大学では、旧制の大学と高等学校の関係が教育課程に引き継がれた。旧制高等学校で教えていた図画科目とその授業時間数は新制大学の教養課程に引き継いだ。また旧制の高等学校で図画科目を教えていた教師は教養部の図学教室の教師となった。

 日本に導入した製図学の科目とそれを教えた教師は、高等教育制度の中で保障されてきた。しかし製図学教育の科目の内容は学校制度とともに変化していた。


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4. 日本の製図学の科目と細目の変化

4.1 導入期の製図学の科目

(1)工部大学校
 1874(明治7)年の教育課程[13]で、図画が製図学の科目名称として使われた。1877(明治10)年の教育課程では、科目名称が図学に変わる。1885(明治15)年の図学科目を構成する細目は、初歩自在画(freehand drawing)、幾何平面図、幾何立体図、配景法(perspective)である。これらの細目を学んだ学生に、応用として機械製図や建築製図の知識を教えた。

(2)東京開成学校
 1876(明治9)年の教育課程[14]では、画学が科目の名称である。その細目は自在画と用器画(instrumental drawing)に分かれていた。自在画では、静物画、人物画、風景画の写生がおこなわれた。用器画では、製図器具を使った幾何学図形や投影法を教えた。その後で学生は、透視図や機械製図の知識を学習した。専門科に進むと、工学科では、さらに図画推算学(graphic calculation)、機器図、設計製図と積算の実習を学んだ。

(3)東京大学
 理学部にある工学系の1880(明治13)年の図学科目[15]は、1学年で画学の名称で幾何学を、2年そして3年で機械図の名称で機械製図の知識を教えた。

4.2 製図学からエンジニアリンググラフィックスの教育への変化

 米国で、製図学は再編され、製図学の教育からエンジニアリンググラフィックスの教育へと変化してきた。これを教育研究する教授の名称もProfessor of DrawingからProfessor of Engineering Graphicsへと変わっていった。

 当初の製図学の科目はdrawingとその基礎理論であるgeometryの細目をふくんでいた。drawingは、さらにartistic drawing(芸術的な図や絵)とtechnical drawing(投影法による図面、あるいは幾何学による図面)をふくんでいる。geometryは、平面幾何学、立体幾何学、解析幾何学、そして図法幾何学の細目をふくんでいた。

 その後、産業の変化と共に製図の技術も変化していく。20世紀の初めに、製図規格が加わる。測定法の発達はさらに製図規格を変化させていく。20世紀の後半になるとコンピュータグラフィックスとCADが加わった。つくりだす図面はフリーハンドから機械を使うもの、そしてコンピュータを使うものをふくむようになった。

 米国では図面をさすdrawingに対してより広い図的表現の概念であるgraphicsを用いるようになった。表現する図形のモデルも、図面によるモデルだけでなく幾何データによるコンピュータモデルを扱うようになった。これらの技術的知識は細目としてエンジニアリンググラフィックスの教育に加わっていった。

 図面による生産をめざす製図の技術は、職人にかわり図面でものをデザインする技術者をうみだした。製図は図面を作成するだけでなくデザインすることもふくんでいる。エンジニアリンググラフィックス教育では、細目で図面を手段としてデザインする経験が位置づけられている。

 これに対して、日本では製図の行為を次第に図面を作成することに限定してきた。製図学の科目も図面を一義的に定義するための知識、投影や製図規格の知識の習得に重きをおかれた。デザインの実習はほとんどおこなわれず、製図規格にもとづく作図練習が科目の内容を占めるようになっている。しかし製図規格の指導をするが、工作物の計測を製図学実習としておこなわず、学生はそこで用いる寸法や精度を実体化してとらえるのが困難である。

4.3 日本の「製図、図学」の用語の変化

 明治期、製図学の名称としてのdrawingの訳語に画学や図学そして図画を使った。その後、旧制の高等学校で、drawingを図画の名称に統一した。明治期の画学・図学・図画の科目は、共にdrawingとgeometryをふくむ内容であった。そしてこの時代のdrawingの用語は、artistic drawingとtechnical drawingの総称を意味した。またこの時代、図画[16]の用語は、現在の芸術や芸術教育を意味しなかった。

 図画科目は、旧制高等学校から新制度の大学に引き継がれた。大学では、図面作成の練習をおこなっていた製図学実習と図法幾何学の両方をふくむ図画科目を教育課程からなくし、細目である製図学実習と図法幾何学を独立した2つの科目とした。これが教養課程の製図科目と図学科目である。

 新たな図学科目はdrawingをふくまないgeometryであり、旧制の高等学校で教えていた図法幾何学を内容とした。新たな製図科目はtechnical drawingに限定し、内容を工業製図の知識にもとづいた図面作成の練習とした。

 engineering graphicsの訳語は、エンジニアリンググラフィックスと表記するか、「製図と図学」をこれにあてて説明する。しかし、現在の2つの細分化した製図と図学の科目をとうして、明治期の製図学から変化したエンジニアリンググラフィックスとその教育科目を理解することは困難である。


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5. 旧制高等学校における製図学の科目の変容

 日本の製図学の科目が導入期にくらべ狭い範囲の細目を教えるようになった要因として、専門的な教育を受けた教師がいなく、研究者が育たなかったことが指摘[17]されている。このほかに、製図学の科目が普通教育をおこなう高等学校制度の中で維持されたことがあげられる。旧制の高等学校で、当初技術教育であった製図学の科目が、生産の技術から離れた教養の学問(リベラルア−ツ)に変化していったと考えられる。
 日本の導入期、既に英国ではこのような教育目的の変化があった。製図学はものをデザインするという実用的な目的でなく、微分積分学や解析幾何学で式を計算すると同じような強力な計算機関[18]として、価値が認められていた。英国でモンジュの図法幾何学はカレッジの理科の学生の科目[19]として教えていた。

5.1 図画科目の時間数

 明治の後期、高等学校から専門教育を分離する過程で、図画科目の時間を減らした。学校が専門教育をおこなっていた1889(明治22)年の1週間の図画授業時間11)は、1年生2時間、2年生3時間、3年生10時間であった。専門教育をおこなわなくなった1919(大正8)年になると、1年生2時間、2年生2時間、3年生2時間になる。授業の時間は減ったが、現在にくらべると十分な時間を図画科目に費やすことができた。

5.2 学校での製図学実習

 半分以上の授業時間[12]を製図学実習に費やした。実習は図面を正しく美しく模写する指導[20]として定着していった。

 しかし、製図教育の概念がこの時期定着したとは考えられない。いいかえれば、実際の工作物を作るための製図行為と学校教育での製図行為の区別が確立したとは考えられない。学校での製図行為は、製図学の知識の修得のために作図を手段とするもので、製図学実習のひとつの細目である。図面の作成練習の教材は、製図学の知識の修得を目的として、体系的化されねばならない。教師は製図教育の実用性を考えたであろうが、これが現場で使われた実用的なあるいは実務的な図面を教材とすることと結びついていた。

 図面の作成練習についても、どうしたら学生が正しい図面を描くことができるようになるのか。学生が間違うのはどのような理由か。正しく図面を読み書きする技能の分析はなされなかった。

5.3 科学としての図法幾何学

 学校で、図面をかくことが熟練により得られる技能と見なされ、幾何学が図画科目の唯一の科学となる。そして幾何学、特に図法幾何学の内容が、大学工学部や工業大学の入試科目になった。入試科目になることで旧制高等学校の図画科目は、より教育制度に保障された科目となった。

 図画科目の細目である幾何学が大学の入試科目になることは、図画科目の構成を変質させることになる。幾何学の問題を解くための知識を、製図技術と幾何学の関わりの知識より重視した。そのために幾何学教育に重点をおき、論理的な思考や空間の想像力を強調するようになる。図画の授業は、生産のために図面をつくりだす技術教育から離れ、幾何学の持つ数学的、計算的側面を強調し、教養の独立した科目の装いを強めていった。

 旧制の高等学校では図画科目の教科書[21~24]として図学の名称が一般化していく。この図学教科書は図法幾何学を内容とするものであり製図技術の知識をふくまなかった。 図画科目を教える教室の名称も図画でなく図学教室となっている。このようにして高等教育をうけた者の中で、図画科目を支える科学は図法幾何学であり、図学は図法幾何学であるとの観念をつくったと推測できる。


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6. まとめ

 エコール・ポリテクニークをモデルとした日本の製図学の科目は、政府が保障し、高等教育機関で教える知識となった。導入期の画学、図学、図画と呼ぶ製図学は、職人が中心だった生産を図面を用いた生産システムに変え、これを日本の産業社会に定着させることをもくろんで導入した科目であった。この製図学は製図技術の知識だけでなくそこで必要な解析の知識をふくむ総合的な内容であった。

 その後、製図学の実習が模写による作図の技能指導として定着していった。製図学の科目の中で、製図の技術を支える科学は図法幾何学と理解された。図画科目は図面作成の練習と図法幾何学を細目とする狭い範囲の製図学教育の内容に変化した。新制大学は製図教育を引き継ぎ、さらに教科の細分化をおこなった。細目であった図面作成の製図学実習と図法幾何学は独立した製図科目と図学の科目に昇格した。一方で製図を教える技術と科学の知識をふくんだ総合的な製図学教育の科目をなくした。

 図面による生産システムは、この百年の間に日本の産業社会に定着していったが、完成したものでない。製図学が対象とした製図の技術は変化している。現在の流布している製図と図学の科目の教育観は、製図学の再編からでなく教える側からの論理で形成した観念である。これらの観念は、歴史的に見れば製図学の一部を、そして製図学教育の細目の一部を強調したものにすぎない。


参考文献

1)    村上陽一郎、新しい科学史の見方、日本放送出版協会、1997、78.
2)    P.J.ブッカー、製図の歴史、原正敏訳、みすず書房、1967、107.
3)    G.モンジュ、図法幾何学、山内一次訳、山内一次遺稿刊行会、1990、5-7.
4)    三枝博音、技術の哲学、岩波全書、1951、95-101.
5)    荒川泓、近代科学技術の成立、北海道大学図書刊行会、1973、80.
6)    H.フォグラー、グラーツ工業大学幾何学教室について、増田祥三訳、図学研究 18、1976、29.
7)    荒川泓、近代科学技術の成立、北海道大学図書刊行会、1973、47.
8)    原正敏、明治初期の図学教育(II)−工部大学を中心に−、図学研究 8、1971、27.
9)    原正敏、幕末および明治初期における図学教育の導入について、科学史研究 115、1975、109-110.
10)    原正敏、幕末および明治初期における図学教育の導入について、科学史研究 115、1975、114.
11)    原正敏、明治期の図学教育、日本図学会九州支部、1991、87.
12)    近藤誠造、図学についての思い出、昭和期の図学教育、図学研究 75、1997、12.
13)    原正敏、明治初期の図学教育(II)−工部大学を中心に−、図学研究 8、1971、28-29.
14)    原正敏、明治初期の図学教育(I)−東京大学を中心に−、図学研究 7、1970、38-44.
15)    原正敏、明治初期の図学教育(I)−東京大学を中心に−、図学研究 7、1970、41-42.
16)    現代教育学事典、労働旬報社、1988、458-459.
17)    原正敏、図的表現の歴史、図形科学ハンドブック、日本図学会編、1980、10.
18)    小高司郎、画法幾何学の演習、森北出版株式会社、1966、1.
19)    P.J.ブッカー、製図の歴史、原正敏訳、みすず書房、1967、161.
20)    森貞彦、製図教育における異文化間屈折現象、文化と技術の交差点−機械製図および製図教育の真相の研究−、パワー社、1990、173-187.
21)    千葉睦朗、Projectionの邦訳について、図学研究 20、1977、43-46.
22)    日本図学会用語委員会、用語委員会報告(1)、図学研究 14、1974、50.
23)    原正敏、幕末および明治初期における図学教育の導入について、科学史研究 115、1975、113-114.
24)    原正敏、明治初期の図学教育(II)−工部大学を中心に−、図学研究 8、1971、37-38.


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